七十二候をまとう ~きものに宿る「季節の先取り」の美学~
京都・伏見の地で呉服の道に携わり、二代目として六十余年。
日々美しい反物や帯と向き合う中で、きものほど日本の繊細な季節の移ろいと深く結びついた衣服はないと、幾度となく実感してまいりました。
日本には、おなじみの春夏秋冬をさらに二十四に分けた「二十四節気」、
そして気象や動植物の変化を知らせるために七十二にまで細かく分けた「七十二候」という、
非常に解像度の高い美しい暦が存在します。
きものの世界では、古くからこの微細な季節のグラデーションを読み取り、日々の装いに取り入れることが大切にされてきました。
その際、最も「粋(いき)」とされるのが、「季節の先取り」という美学です。
写実的に目の前にある風景をそのまま身にまとうのではなく、実際の季節よりも「半歩先」をゆくこと。
たとえば、桜が満開になる少し前の時期に桜柄をまとい、風に花びらが舞い始める頃には、もう次の季節の花である藤や牡丹へと思いを移します。
これは決して気が早いというわけではありません。
やがて来る美しい季節を待ちわびる「心のときめき」や、自然への敬意を、文様や色に託して表現しているのです。
また、この「先取り」には、相手を思いやる豊かなコミュニケーションの意味も込められています。
これから京都は厳しい暑さを迎えますが、このうだるような盛夏の時期であっても、
きものや帯には、撫子(なでしこ)や桔梗(ききょう)、萩(はぎ)、ススキといった「秋草(あきくさ)」の文様が少しずつ顔を出し始めます。
暑い最中にあえて秋の気配をまとうのは、「涼しげな秋の野を思い浮かべていただき、少しでも涼を感じていただきたい」という、
お会いする方への心遣いから生まれた知恵なのです。
自分を着飾るだけでなく、周囲に涼や温もりを届ける。
きものとは、なんと奥ゆかしく、優しい衣服なのでしょうか。
四季の移ろいを肌で感じ、七十二候の暦を一枚の布の上に描くように、少し先の季節を身にまとう。それは、自然の摂理と共に生き、相手を気遣う日本ならではの素晴らしい文化です。
「今日は、どの季節をまとって出かけようか」
そうやってタンスを開け、帯合わせや小物選びに思いを巡らせる時間は、せわしない現代の日常の中に、深く豊かな余白を生み出してくれます。
ぜひ皆様も、移りゆく日本の美しい季節を、きものを通して心ゆくまで味わってみてください。
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